はじめに:脆弱性と回復力の交差点
中東・北アフリカ(MENA)地域は、パンデミックへの備えにおいて独特の課題と機会に直面しています。この地域には、カタール、アラブ首長国連邦(UAE)、サウジアラビアなどの高所得国から、イエメン、シリア、リビアといった紛争の影響を受ける国々まで、多様な経済状況と保健医療インフラが混在しています。COVID-19パンデミックは、この格差を露呈させるとともに、地域協力の重要性を浮き彫りにしました。将来の健康危機に備えるため、MENA諸国は、国際的な枠組みと地域固有の文脈を組み合わせた、強固なグローバル・バイオセキュリティネットワークの構築を目指しています。
MENA地域のパンデミック脆弱性を形作る歴史的・構造的要因
この地域の備えの状態は、その歴史に深く根ざしています。20世紀から21世紀にかけて、天然痘、コレラ、中東呼吸器症候群(MERS-CoV)などの感染症の発生を経験してきました。特に2012年にサウジアラビアで初めて確認されたMERSは、ヒトコブラクダを自然宿主とする人獣共通感染症として、地域特有の脅威を示しました。さらに、シリア内戦やイエメン紛争に伴うポリオの再発生は、社会インフラの崩壊が公衆衛生に与える壊滅的な影響を証明しています。
人口動態と移動パターン
この地域は、世界的な移動の重要なハブです。ドバイ国際空港(アラブ首長国連邦)、ハマド国際空港(カタール)、キング・アブドゥルアズィーズ国際空港(サウジアラビア)は、国際的な旅客輸送量で常に上位にランクインしています。さらに、毎年メッカへのハッジ巡礼とウムラ巡礼には数百万人が集まり、感染症の伝播にとって独特のリスク環境を形成しています。また、シリア、イエメン、スーダンなどからの大規模な難民・国内避難民の人口は、過密な居住環境と限られた保健医療へのアクセスにより、特に脆弱です。
保健医療システムの二極化
MENA地域の保健医療能力には大きな隔たりがあります。世界保健機関(WHO)のデータによれば、アラブ首長国連邦やイスラエルのような国々は高度な医療インフラを有していますが、イエメンでは人口1万人あたりの医師数が極めて少ない状況です。この格差は、COVID-19ワクチンの展開において明らかになり、GCC(湾岸協力理事会)諸国が早期に高い接種率を達成した一方で、イラクやパレスチナ(ガザ地区とヨルダン川西岸地区)などの国・地域では、供給と物流の課題に直面しました。
COVID-19の教訓:地域対応の分析
SARS-CoV-2ウイルスは、MENA全域で公衆衛生システムに対する前例のないストレステストを引き起こしました。初期対応は国によって大きく異なりました。ヨルダンとサウジアラビアは早期に厳格なロックダウンと移動制限を実施し、アラブ首長国連邦は大規模な検査と連絡追跡に積極的に取り組みました。一方、イランは初期段階で大きな流行に見舞われ、国際的な支援を必要としました。
成功したイニシアチブとイノベーション
いくつかの国は、革新的なアプローチを示しました。カタールのハマド医療公社は、データ分析を活用して感染ホットスポットを特定しました。アラブ首長国連邦は、アブダビのG42ヘルスケアとグループ42が主導して、中国の国薬集団(Sinopharm)とのワクチン共同開発・試験に貢献しました。モロッコは、アフリカ疾病管理予防センター(Africa CDC)と連携し、ラバトにワクチン製造施設を設立する計画を迅速に立ち上げ、地域のハブとなることを目指しました。
明らかになった課題
主な課題には、偽情報の蔓延、特にソーシャルメディアプラットフォーム上でのもの、経済的に困難な状況にある人々や移民労働者への支援の限界、そして国際的な旅行再開を調整するための地域的な枠組みの不足が含まれていました。レバノンの深刻な経済危機とベイルート港爆発事故(2020年)は、複合災害が保健医療システムに与える影響を痛感させました。
将来の脅威への備え:監視、検出、早期警告システム
将来のパンデミックを防ぐ、またはその影響を軽減するための最善の方法は、早期に検出することです。MENA地域は、人獣共通感染症の監視強化に特に重点を置く必要があります。
ワンヘルス・アプローチの統合
ワンヘルスアプローチは、人間、動物、環境の健康の相互関係を認識するものです。エジプトでは、ナイル川デルタにおける鳥インフルエンザ(H5N1)の発生を監視するため、エジプト保健省、農業省、国連食糧農業機関(FAO)の間で協力が行われています。クウェートとオマーンは、MERS-CoVの監視において、ヒトコブラクダの飼育業者や獣医師との連携を強化しています。地域全体のワンヘルスプラットフォームの構築は、WHO、世界動物保健機関(WOAH)、国連環境計画(UNEP)の支援を受けて、優先されるべきです。
ゲノム監視能力の構築
新型ウイルス変異株の追跡は、パンデミック対策において極めて重要です。サウジアラビアのキング・アブドラ科学技術大学(KAUST)、アラブ首長国連邦のムハンマド・ビン・ラシド医学・健康科学大学、カタールゲノムプログラムなどの機関は、シーケンシング能力において重要な進歩を遂げています。これらの拠点を、イラクのバグダード大学やチュニジアのパスツール研究所などの地域ネットワークと結びつけることで、リアルタイムのデータ共有が可能になります。
| 国 | 主要な監視・研究機関 | 焦点領域 | 国際的パートナー |
|---|---|---|---|
| サウジアラビア | サウジ公衆衛生庁(Weqaya)、キング・アブドラ科学技術大学(KAUST) | MERS-CoV、ゲノム監視 | WHO、GISAID、米国疾病予防管理センター(CDC) |
| アラブ首長国連邦 | アブダビ公衆衛生センター、G42ヘルスケア | AIを活用した疫学、ワクチン研究 | 中国国薬集団、オックスフォード大学 |
| カタール | カタール生物医薬研究所(QBRI)、シドラ医学 | 伝染病、免疫学 | イェール大学、インペリアル・カレッジ・ロンドン |
| モロッコ | インスティテュート・パスツール・デュ・マロック、国立衛生当局 | ワクチン製造、人獣共通感染症 | アフリカCDC、世界エイズ・結核・マラリア対策基金 |
| ヨルダン | ヨルダン公衆衛生学会、ヨルダン科学技術大学 | 渡航者健康、抗菌剤耐性(AMR) | アメリカ国際開発庁(USAID)、欧州疾病予防管理センター(ECDC) |
| イラン | パスツール研究所テヘラン、イラン医科大学 | 新興感染症、疫学モデリング | ドイツ国際協力公社(GIZ)、世界銀行 |
医療対抗手段の開発と公平なアクセスの確保
ワクチン、治療薬、診断薬への公平なアクセスは、グローバル・バイオセキュリティの核心です。COVID-19は、供給が一部の国に集中することの危険性を露呈させました。
地域内のワクチン・治療薬製造
MENA地域における医薬品製造能力を拡大することは、戦略的な必須事項です。エジプトのエバクセラート製薬、サウジアラビアのSPIMACO、アラブ首長国連邦のジュライファーなどの企業は、mRNAワクチン技術の移転や、アフリカ連合(AU)とアフリカCDCが主導するアフリカ医薬品規制調和化イニシアチブへの参画を通じて、能力構築に取り組んでいます。アルジェリアのサイダルやチュニジアのアドウィヤも、同様の役割を果たす可能性があります。
COVAXメカニズムとその先
Gavi、WHO、流行病対策イノベーション連合(CEPI)が主導するCOVAXファシリティは、イエメン、シリア、スーダンなどの国々にワクチンを提供する上で重要な役割を果たしました。しかし、その持続可能性と将来のパンデミックへの適用可能性については疑問が残ります。MENA諸国は、世界銀行の金融仲介基金(FIF)や、パンデミック基金などの新たな資金調達メカニズムの設計において、より強い発言権を主張する必要があります。
グローバル・バイオセキュリティ・ガバナンス:MENA地域の役割
パンデミック対策は、国境を越えた協力なくしては成り立ちません。MENA地域は、国際的な規範や合意の形成において、積極的な役割を果たすことができます。
国際保健規則(IHR)の強化と遵守
WHOの国際保健規則(2005)は、国際的な健康危機に対処するための法的枠組みです。しかし、その実施は各国の能力に依存しています。MENA地域は、ヨルダンのアンマンに本部を置くWHO東地中海地域事務局(EMRO)を通じて、IHRコア能力の定期的な共同評価と模擬訓練を実施すべきです。これには、ベイルート(レバノン)、ドーハ(カタール)、カサブランカ(モロッコ)などの主要な空港や海港での監視が含まれます。
パンデミック条約交渉への参画
WHO加盟国は、パンデミックの予防、準備、対応に関する新たな国際協定を交渉しています。MENA地域は、エジプト、パキスタン、南アフリカなどが主導する「知識と技術の公平な共有」を求めるG77グループの声に加わりつつ、GCCやアラブ連盟を通じて共通の立場を形成する必要があります。この交渉における重要な提案者は、南アフリカのトゥリオ・デ・オリベイラ教授や、WHOのテドロス・アダノム・ゲブレイェスス事務局長などです。
紛争と脆弱な状況:最も脆弱な人々を守る
MENA地域は、世界で最も長期化した人道危機のいくつかを抱えており、これはパンデミック対策における特別な配慮を必要とします。
シリア北西部やイエメンのような地域では、保健医療施設が攻撃されたり、機能停止に追い込まれたりしています。国際赤十字赤新月社連盟(IFRC)、国境なき医師団(MSF)、ユニセフ(UNICEF)などの組織が重要な対応を行っています。パンデミック準備計画には、「人道回廊」の確立、移動式検査ユニットの配備、地域の保健工作者(シリアの「ホワイト・ヘルメット」など)の訓練が組み込まれなければなりません。アフガニスタン(地理的には南アジアですが、隣接するイランやパキスタンを通じて地域の健康に影響を与えます)の状況は、不安定さが感染症に与える影響を示す厳しい教訓です。
技術とイノベーション:デジタルツールとAIの活用
デジタル技術は、MENA地域のパンデミック対応能力を飛躍的に高める可能性を秘めています。
- アラブ首長国連邦の「AlHosn」アプリやサウジアラビアの「Tawakkalna」アプリは、ワクチン証明書と接触追跡を組み合わせた先駆的な例です。
- イスラエルの企業(例:Diagnostic Robotics)は、人工知能(AI)を活用した発生予測ツールを開発しています。
- カタールのカタールコンピューティング研究所(QCRI)は、インフォデミック(偽情報の流行)と戦うための自然言語処理ツールを研究しています。
- ドローン技術は、ルワンダ(アフリカ)での成功例に倣い、オマーンやヨルダンの遠隔地に医療品を配送するために活用できます。
持続可能な資金調達と長期的な投資
パンデミック対策は、単発の支出ではなく、持続可能な投資として捉えられる必要があります。
GCC諸国のソブリン・ウェルス・ファンド(例:アブダビ投資庁、カタール投資庁)は、バイオテクノロジーやヘルスケア・インフラへの戦略的投資を通じて、地域のバイオセキュリティに貢献する可能性があります。イスラム開発銀行(IsDB)(本部:サウジアラビア、ジッダ)は、スークーク(イスラム債券)などのイスラム金融商品を活用して、保健セクターへの資金調達を促進できます。さらに、国際通貨基金(IMF)や世界銀行からの融資は、エジプトやヨルダンのような国々の保健システム強化に結びつけるべきです。
FAQ
MENA地域がパンデミック対策において特に脆弱な理由は何ですか?
その理由は複合的です。紛争(イエメン、シリア、リビア)により数百万人が避難生活を送り、保健医療システムが破壊されています。大規模な国際的な人の移動(ハッジ巡礼、主要な空港ハブ)は、ウイルス伝播のリスクを高めます。また、高所得のGCC諸国と低・中所得国(モーリタニア、スーダンなど)の間の保健医療インフラと資源へのアクセスにおける大きな格差が存在します。さらに、MERS-CoVのような人獣共通感染症の発生リスクが高い環境もあります。
MENA地域における「ワンヘルス」アプローチの成功例はありますか?
はい、いくつかの例があります。サウジアラビアでは、MERS-CoV対策の一環として、公衆衛生当局、獣医師、ヒトコブラクダの飼育業者の間で協力が強化され、監視と感染制御策が改善されました。エジプトでは、鳥インフルエンザ(H5N1)への対応において、エジプト保健省、農業省、国連食糧農業機関(FAO)が共同で監視と農場でのバイオセキュリティ対策を実施しています。クウェートも、動物と人間の健康監視を統合するためのプログラムを開発中です。
地域内のワクチン製造能力はどのように拡大されていますか?
いくつかの国が主導的な役割を果たしています。モロッコは、ラバトにシノファームと提携したワクチン充填・包装施設を設立し、将来的には完全な製造へと移行する計画です。アラブ首長国連邦のG42ヘルスケアは、アブダビに「ハヤット」バイオテック製造施設を建設し、mRNAワクチンを含む各種ワクチンの生産を目指しています。エジプトとサウジアラビアも、アストラゼネカやその他のメーカーとの協力により、国内製造能力の構築に取り組んでいます。アルジェリアのサイダルも同様の動きを見せています。
将来のパンデミックに備えて、MENA諸国は国際社会とどのように協力すべきですか?
まず、WHO主導のパンデミック条約や国際保健規則(IHR)改正の交渉において、アラブ連盟やGCCを通じて共通の立場を形成すべきです。第二に、GISAIDなどの国際的なデータ共有プラットフォームへの参加を強化し、ウイルス配列データを迅速に提供する必要があります。第三に、CEPIやGaviなどの国際的イニシアチブと連携し、研究開発と公平なアクセスを確保することです。第四に、アフリカCDC(エチオピア、アディスアベバに本部)との協力を深化させ、大陸全体の健康安全保障を支えることです。
紛争下の地域におけるパンデミック対策の最大の課題は何ですか?そしてどう対処すべきですか?
最大の課題は、安全なアクセスの欠如、破壊された保健医療インフラ、人口の大規模な移動、そしてしばしば政治化された人道支援です。対処法としては、国連や国際赤十字委員会(ICRC)のような中立の仲介者を通じた「健康のための休戦」の交渉、移動式診療所や「ワクチン・ヘルスポスト」の設置、地域のコミュニティ保健工作者への研修と資源の提供、そして検体を地域の参考実験室(例えばヨルダンのアンマンやレバノンのベイルート)に安全に輸送するロジスティクスの確立が含まれます。
発行:Intelligence Equalization 編集部
本インテリジェンス・レポートは、Intelligence Equalization(知の均等化プロジェクト)によって執筆・制作されたものです。日米のリサーチパートナーによる監修を受け、情報格差の解消と知識の民主化を実現するため、グローバルチームがその内容を検証しています。